桐生仏教会100年のあゆみ

①桐生仏教積善会
 (明治43年から昭和20年頃まで)
 明治43年4月に桐生仏教会の前身である桐生仏教積善会が、静谷暢純氏(大蔵院)、月門慈憲氏(観音院)、野口周善氏(浄運寺)らが中心となり、桐生町と周辺の村々の38ヶ寺に呼びかけて結成されました。
 日清、日露の戦争を経て列強諸国の仲間入りを急ぐ我国は、富国強兵、殖産興業を旗印に植民地政策と資本主義の拡大を推し進めていました。
 朝鮮合併の強行や、社会主義思想の弾圧が行われだした年で、派手な戦勝景気の陰で貧富の格差が拡がり、生活困窮者があふれていたのもこの頃です。
 そうした人々の救済を当面の目的とした積善会は、明治42年(1909)群馬県令出獄人保護規定にもとづいて実施された出獄人保護事業(現在の司法保護事業)に中心的な役割で参画しました。
 その後も時代の変遷とともに種々な事業を行いました。たとえば大正9年(1920)戦後恐慌による経済混乱から失業者の続出するに及んで「職業紹介所」を設置、それを補完するために「無料宿泊所」を設けました。翌大正10年には、「桐生訓盲所」を東久方町の大蔵院内に設立。昭和3年に県立の盲学校ができて合併されるまで開校されました。
 これらの事業は市政施行以後、発展的に解消をとげるわけですが、団体、組織による桐生で最初の社会福祉事業でありました。
 ついでながら大正3年(1914)浄運寺境内に開校された「樹徳裁縫女学校」は、当時本町5丁目にあった長福寺で積善会が運営した「樹徳裁縫伝習所」が前身であり、

昭和7年おなじく浄運寺の境内に建てられた「私設図書館」の蔵書は、後の桐生市立図書館の基になっていると言われております。会のメンバーもおおいに協力されているものと思われます。
 このように、夫々の時代にそって意欲的に実践された活動は、第二次大戦までの30数年間にわたり続けられました。
ちなみに昭和8年、9年頃の会の収支決算書を見ると純収入総額3百4拾8圓97銭のうち1百32圓50銭が公的補助金および奨励金です。現在の貨幣価値に換算するまでもなく、いかに高い存在価値を認められていたかが伺えます。
 末尾に記された会計担当者、大田龍峰氏は浄運寺の職員。猪俣英俊氏は当時の光明寺住職です。
②桐生仏教会-その(1)
 (昭和20年から63年頃まで)
 昭和21年、積善会を桐生仏教会と名称を改め、会長に白石龍道氏、副会長に静谷行謙氏、会計、正和法隆氏で再出発しました。
 翌22年には、松本幸四郎(七代目)一座を招き東宝劇場(のちオリオン座)で3日間の歌舞伎公演を主催しています。日本国憲法(所謂、新憲法)制定記念と銘打ち、敗戦直後の市民をおおいに勇気づける企画でありました。記録によると総収入31万5600円、総支出26万4850円の大事業でした。3日間、6回公演の一座の出演料は7万5000円となっています。前年の2月に新円切換えが行われたばかりで、24年頃まで続いたインフレのため貨幣価値を換算するのはとても難しいですが当時の100円は現在の5万円程度にあたると言われます。ちなみに、この年の消費者米価は一俵(60キロ)当たり700円でした。
昭和20年から30年代にかけての町村合併により、会員数は54ヶ寺となり、昭和40年4月には、戦後20年の区切りにあたることから市とも相談のうえで「戦没者慰霊祭」を立上げました。
昭和39年から42年まで会長を勤めた野口善雄氏が導師となりました。  
同じ頃に「夏季緑陰子供会」がスタートしています。前出の野口氏が大正大学の児童研究会当時の同輩だった某氏が紙芝居や人形劇をもって保育園などを訪問していたのがそもそもの始まりで、やがて駒沢女子短大の児童研究部が引き継ぐかたちとなり昭和63年まで続けられました。
夏休み中の一週間程度、4、5名が一組となり数会場の寺や保育園を巡回するもので、彼女達の宿泊は各寺院が分担して引き受けました。
 「寺院巡り」団体参拝旅行が始まったのは、昭和50年正和法隆会長の頃でした。毎回たいへんな人気でバス10数台を連ねることは珍しくありませんでした。

③桐生仏教会-その(2)
 (平成元年から今日まで)
 昭和57年から平成元年まで4期8年会長を勤めた堀幸道氏が昭和をしめくくられました。
 後を白石泰元氏が引き継ぎました。この年から「緑陰子供会」にかわって「夏休み子供書道展」が始まりました。ひところ1000点を超える作品応募があったりして今年で22回目を迎えていますが、最近は、子供数の減少の影響も有って、桐生市内に限らず近隣市町村の書道塾などの協力も仰いでいます。
 前後しますが昭和40年には、会の機関紙「積善」が創刊されています。その後しばらく休刊しましたが、昭和59年に誕生した青年部が同誌を復刊。63年から5回にわたり市内54ヶ寺を紹介するマップを製作。平成7年これを基に「積善・桐生のお寺」と題する冊子にまとめて発行しています。ひとつの地域の寺院を、これほどしっかりとまとめた資料は、他にあまり例を見ない画期的なものであったと思われます。

④まとめ
 「大変な時代」という言葉は今日もよく聞かれます。あるいはいつの時代も大変な時代なのかもしれません。
 仏教会100年の歴史を改めてふりかえれば、けして平坦な道ばかりではありませんでした。廃仏毀釈の嵐を乗り越えての連携でありましたし、軍国主義、全体主義の大波もありました。言論統制のなかでの行動は、ひとつ間違えば単なる社会主義思想のレッテルを張られかねない危険性も有りました。しかし仏教者としての信念は、そういった偏った見方を越える力も備えていたのだと思います。
 戦後の「新しければ全て正しい」的な世相にあっては、あえて伝統的な歌舞伎の公演というかたちで一石を投じたとも言えましょう。
 いま、少子高齢化が叫ばれて久しい時代にあって、子育て支援の部分を保育園運営というかたちで担っているのもこうした流れのなかにあることは言うまでも有りません。地域に密着した利点と寺子屋時代からの伝統をいかしたもので、地域の私立保育園26園のうち14園は桐生仏教会員の寺が運営しています。
 仏教の理念を基とし、伝統を尊びながら夫々の時代に即した実践こそ桐生仏教会の在り方であり、次の100年への方向と確信しております。
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